「知覧」に行ってきました!

2010.11.26
    

24日(水)・25日(木)の両日は、「鹿児島」へ旅行に行ってきました。
今回最大の目的地は、「知覧」。
「知覧」は、”薩摩の小京都” とも呼ばれ、10余りの庭園と武家屋敷通りが広範囲の風致地区として保存されている風光明媚な町でありますが、かつては、”特攻隊の出陣基地” があった町、”帝国陸軍の最前線基地” があった町でもあるのです。
この地には、昭和60年から2年ががりで建立された 「知覧特攻平和会館」 があり、ここには、”神風特攻隊” に関する資料(写真・遺影・遺書・遺品等)が沢山展示されているのです。
  
今回の訪問の目的は、これらの資料を目に焼き付けることにより、「戦争の悲惨さ」 と 「平和の有り難さ」 を感じ取ること、「自分自身の気持ちを奮い立たせ、自分自身を戒めること」 でありました。
 
私が 「発起人」兼「幹事」 となり、6名の方に参加をしてもらいました。
ちなみに、一緒に行ってくれたのは次の方たちです。
  
  株式会社チタコーポレーション  三好社長
  株式会社ブルーボックス   山内社長
  株式会社大橋不動産   大橋社長
  リークス株式会社   森下社長
  株式会社スマイル   岡本社長
  株式会社ハッピー   沼澤専務
 
 
戦争の雲行きが怪しくなってきた昭和19年、大日本帝国は戦況の打開を図るために、250㎏爆弾を搭載した航空機による敵艦への体当たり作戦を敢行しました。
燃料も片道分しか積んでいません。あくまでも”死”を前提とした肉弾作戦であります。
特攻隊員になることは、表向きは各人の志願によるものとされていますが、実際のところは命令によるもの以外の何ものでもなかったのです。
将来ある若者たちが、中には17歳の若者が、愛する人たちが住むこの国を守るために命を投げ打って出陣していったのです。
 
平和会館内に展示してある 「遺書」 をいくつか読ませて頂くと、「天皇陛下のために」・「大君のために」というものもたくさんありましたが、大半は両親(特に母親)に対する切々とした思いを綴ったものでありました。幼い妹や婚約者に対する思いを綴ったものもあり胸が痛くなります。
「自分が家族を残して飛び立つ身になったら・・・」、「自分の子どもが若くして飛び立ってしまう、その身になったら・・・」、こんなふうに思うと、こみ上げてくるものを抑えることができませんでした。 これを書いている今も、涙がこぼれそうであります。
昨年来、”100年に一度の大不況” という言葉を何度となく耳にしてきました。「大変な時代だ」と・・・。 
でも、今の私たちは ものすごく “平和な時代” を生かしてもらっているのです。
仕事や勉強が出来ること、読書をしたり映画を観たり趣味を持てること、家族の近くに居れること、ちゃんとご飯を食べられること、ゆっくり寝られること・・・
ある意味、こんな当たり前とも思えるようなことが許されない時代があったのです。
私は現在46歳ですが、私が産まれるたった20年前まではそんな時代だったのです。
 
なのに、時として 「弱音」 を吐いたり、「不平不満」 や 「愚痴」 をこぼしたり・・・・
こうした恥ずべき行為は、厳に慎まねばなりません。
そんな思いを強く抱かせてくれる場所でありました。 ほんと行ってよかったです。
まだの方は是非お奨め致します。
 

“特攻隊” に関する動画を2本載せておきますのでタイトルをクリックして是非ご覧ください! 
 
  ★ 『神風特攻隊員たちの遺書』
 
  ★ 『静ちゃんへの手紙』 ~神風特攻隊員の兄と幼き妹~