写真は、今週の月曜日に行なわれた大谷徹奘(おおたにてつじょう)さんの『講演会』の様子。 (財)日本賃貸住宅管理協会(通称:日管協)の会員総会の後に行なわれた『記念講演』です。
大谷徹奘さんは、昭和を代表する僧侶である高田好胤(たかだこういん)氏の内弟子であり、奈良の薬師寺の執事を務めておられる方です。
その法話がいま巷で大人気、年間300回にも上る講演会等で引っ張りだこの人物であります。
殴り書きでとったメモを自分なりにまとめてみましたので、今日はそれを “備忘録” としてブログに記させて頂きたいと思います。
奈良の有名なお寺といえば、「東大寺」・「法隆寺」 そして、「薬師寺」。 これらのお寺は敷地内に “お墓” を有せず、お坊さんは “葬儀” に出ることもないのだそうです。
では、何のためにその存在があるのかといえば、ずばり、”心の勉強” 、”心を磨くため” に存在しているのだとか・・・。
この世に満点の幸せを持っている人は、誰一人としていない。 誰もの心の中に「迷い」と「悩み」が同居しているものだと徹奘さん。
徹奘さんは、『お経』 について、私たちが人生で穴ぼこに落ちないようにするために、先人がその注意点を示してくれているガイドブックのようなもの、”人生のるるぶ” だと語っておられました。 面白い例えですよね・・・。
その 『お経』 の中には、”幸せ” を定義する四文字があって、その言葉が 『身心安楽』(しんじんあんらく) というものであると語られました。
『身』とは、目に見えるところを指し、 『心』とは、目に見えないところを指しているのだそうです。
目に見えるところ、つまり、モノは 「お金」 で買えます。 お金は 「数字」 に置き換えることができ、数字には終わりがないので、常に欲求不満の状態なのだとか。
また、目に見えないところについては、それを受け止める 「心」 がしっかりしていないと幸せはやってこないというふうに述べておられました。
“らくちん” という言葉がありますが、これは “楽身” という文字がその由来となっているとのことです。 言われてみれば、身体が楽なときは “らくちん” と言いますが、心が楽なときは “らくちん” とは言いませんよね。 この部分も「なるほど」って感じでした。
人間の心に波を立てる不安の種は 『人間関係』 。 人間関係が良ければ、辛い状況にあっても頑張ることができるものですが、そうでなければ頑張りきることなど出来ないものです。
では、『人間関係』 を良くしていこうと思うのであれば、どうしたらいいのでしょうか・・・。
それには、「人間関係はどんなときに悪くなるのだろうか?」 という問いを自分に投げかけてみることによって導かれるのではないかと語っておられました。
以前、徹奘さんが、別々の小学校に通う10人の子供たちに、「学校でキライな人はどんな人?」 というアンケートをとったことがあるのだそうです。
その結果が以下の通り。
1、悪口をいう子
2、何かをやるときに、邪魔をする子
3、すぐに叩いてくる子
よい人間関係を築いていく上では何をしてはいけないか・・・、ということについては、この結果を見るだけでも明白ですよね。
また、私たちが日常生活を送っていく上で常に念頭に置いておかねばならないことがあります。
それは、人間は一人ひとり “価値観のモノサシ” が違う ということ。 また、全員がその 「目盛りの幅」 が違うということです。
例えばの話ですが、徹奘さん曰く、『”引きこもり” には、”引きこもり” の論理がある』、「俺を理解しないお前が悪い・・・」 という論理があるのだと語っておられました。
つまり、”価値観のモノサシ” が違うわけです。 自分のモノサシにかなわないことを相手が言うと、「相手とは口をきかない」→ 「相手を見なくなる」→ 「部屋から出てこなくなる」 こんなふうに態度・行動も変わっていくのだそうです。
人間は、一度でも自分の 「価値観」 に合わないことを相手がやると、相手を認められなくなる。 “ダメ” のレッテルを貼ってしまうようなことが多いものだそうです。
自分の持っている 「価値観」 で相手に接するから衝突することにもなるわけで、自分の 「目盛りの幅」 が広がれば相手を許せるし、自分の 「目盛りの幅」 が狭まれば腹が立つ。 そういうものだそうです。 確かにそうかも知れません・・・。
そもそも、”よっぽどの縁” がなければ、同じ屋根の下で家族だとか、同僚だとかにならないわけです。 “よっぽどの縁” があってのあなたと私・・・。 世の中すべてが “よっぽどの縁” なのです。
『縁』 は”生き物”。 だから、これに魂を入れていくと 『絆』 へと変わるのだそうです。 これなんか実に素晴らしい言い回しですよね・・・。
その他、「運命」 についての話も印象的でした。
命を運ぶと書いて「運命」。 つまり、「運命」 とは定められて仕方なくたどるものではない。 自らの命を自分の力で運んでこそ 「運命」 と言えるのではないかというふうに語っておられました。
また、「運が悪い」 という言葉の解釈も、”運び方” が悪い。 つまり、”やり方” が悪いのだというふうに捉えれば、少しは前向きな考えになれるのではないかとも語られました。
人から 「アイツは運が悪い」 とか言われても気にすることなどなく、運が悪いかどうかは、自分自身が決めることなんだ というふうにも語っておられました。
それを次の言葉にされました。
『命を運ぶで運命、その運転手は自分』
そして、講演の最後に “締め” として使われたのが次の言葉。
『偏(かたよ)らない心、拘(こだわ)らない心、囚(とら)われない心、広く、広く、もっと広く。これが般若心経、空(くう)の心なり』
心に響く数々の箴言に、心より感謝です。 (合掌)
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