ボウリング部だったんです

2012.04.26
    

大学時代に着用していた「ボウリングのユニフォーム」です。懐かし~いっ!

このブログの中でも記したことがありますが、私は今年の8月26日(日)に行なわれる「社会保険労務士試験」を受験するつもりなんです。(ちょうど4ヶ月後の今日です・・・)
いよいよ、その願書の提出時期が到来しました。
 
説明書を読むと、「大学の卒業証書の写し」(もしくは、大学が発行する卒業証明書)を添付する必要があるとのことでありました。
 
「卒業証書」は、父母宅の”屋根裏部屋”にあるということを知っていましたので、昨日それを探していたのです。
 
屋根裏部屋には、私と弟の思い出の品々が「収納ケース」(カンカン)に入って、きれいに整理されていました。 母がやってくれていました・・・。(ありがとう!)
何段にも積んであるケースのうち、一番下にあったケースに「健太郎・大学」と書いた札が付いているのを発見。
そのケースを取り出し、蓋を開けると「懐かしい思い出」が、い~っぱい詰まっていました・・・。
 
目的の「卒業証書」は勿論、「卒業アルバム」、部活でやっていた「ボウリングのユニフォーム」、「トロフィー」、「メダル」、「草野球のユニフォーム」、「帽子」、その他、「マージャンぱい」なんかも入っていました。
 
写真は、「ボウリングのユニフォーム」です。
今まで触れたことはありませんでしたが、私は大学時代、”マジ”でボウリングをやっていたんです。 一応、”体育会”でした・・・。
 
我が学習院大学ボウリング部は、私が入部した当時は「関東学連4部リーグ」(最下位リーグ)に甘んじていたのですが、私たちが卒業する時には、これを「1部リーグ」にまで昇格させたんですよ。 すごいでしょ・・・。
 
チーム戦形式(5人)で3ゲームを行ない、勝ち点形式で順位を競います。
「春季リーグ」と「秋季リーグ」があり、そこのリーグで優勝すると上位リーグへ自動昇格、2位に入ると上位リーグの5位校と入替戦だったような気がします・・・。 
 
私がレギュラーをとった3年次の春からは、4部優勝、3部優勝、2部優勝(どこか一つは入替戦だったかも知れません・・・)で、強豪校がひしめく1部リーグ6校の一角に食い込んだんですよ
(当時は、東海大学がメチャクチャ強かったです・・・。他には、明治・中央・亜細亜・法政か國學院?が1部にいた気がします) 
 
勘違いしないで頂きたいのですが、私が特別上手かった訳ではありません。
私の場合は、まったくもって”邪道”でしたから・・・。
 
とにかく、「チームの総合力」で勝ち上がったという形です。
公式戦でのアベレージ(たしか、60ゲーム以上投げないと駄目だったような記憶があります)が、”180”を超える選手は”メジャーボウラー”の称号が与えられ、別のユニフォーム(写真右の白いユニフォーム)が関東学連から支給され、メジャーボウラーだけで行なわれる個人戦「メジャーリーグ」に出場できるのです。
(私の場合は、3年時の秋に「準メジャーリーグ」で優勝(アベレージ184)し、それを機に”メジャー”に昇格したのですが、4年時春の「メジャーリーグ」で、”どべ2”となり、1期で陥落しました・・・) 
 
当時の学習院大(最盛期)は、レギュラー5人のうち、4人が「メジャーボウラー」だったんです。
“スーパースター”はいなかったものの、粒がそろっており、安定感があったというわけです。
 
私は、当時から”元気”と”勢い”だけはありましたので、対抗戦時のリーダーとして”チームキャプテン”(”主将”ではありません)を務めていました。
 
全国学生選手権大会(チーム戦)が名古屋で開催されたときには、皆が私の実家に泊って、ワイワイガヤガヤやりました。 めっちゃ暑い夏でした・・・。
この時は予選で敗退しましたが、ホント懐かしい思い出です。
 
当時の主将を務めていた牧田君は実業団でボウリングを続け、何度かパーフェクト(300点)を達成したと聞きましたし、1学年下の佐々木さんは卒業後、女子プロになってテレビにも出ていました。 
 
その後、みんなどうしているのかなぁ・・・。
ひょんなことから”ノスタルジー”に浸ることになりました。 
 
当時の仲間と知り合ってから約30年。
同級生とはちょうど30年になりますので、同窓会を開いてみたいという気に駆られています。