写真は、先日、妻と次女と3人で東京へ出かけた際に訪れたチャペル。
実はこれ、次女が来春から通う大学構内にあるチャペルなんです。
次女の進学先が決まったので、大学見学にいった際に覗かせてもらいました。
私は仏教徒ですが、響きわたるパイプオルガンの音色に心が洗われるような気がしました。
さて、本題。
今日も当社のフィロソフィーで行かせてもらいます。
そう、ネタが見つからないからです。悪しからず・・・ (^^;
「ウィズコ・フィロソフィー」(フィロソフィー手帳P.41)に【素直な心を持つ】というものがあります。キリスト教の基礎は、聖書を“素直”に読むことだと言われますので、この項目を取り上げます。そこには次のように記しています。
“素直な心を持つ”という言葉は、「右向け右」と言われれば、おとなしく右を向くといった従順な意味合いにとられがちですが、決してそうではありません。「素直な心」とは、自分自身の至らなさを認め、そこから努力するという謙虚な姿勢であり、それこそが成功の鍵と呼べるものなのです。
とかく能力のある人や気性の激しい人、我の強い人は、往々にして人の意見を聞かず、たとえ聞いても反発するものです。しかし、本当に伸びる人は、素直な心をもって人の意見をよく聞き、常に反省し、自分自身を見つめることのできる人です。そうした素直な心でいると、その人の周囲にはやはり同じような心根を持った人が集まってきて、物事が上手く運んでいくものです。自分にとって耳の痛い言葉こそ、本当は自分を伸ばしてくれるものであると受け止める謙虚な姿勢が必要です。
感謝の心が「幸福の呼び水」ならば、素直な心は「進歩の親」であるかも知れません。
当社では各部署の朝礼時に「フィロソフィー手帳」を輪読(2項目づつ)しているのですが、私が朝礼参加した部署においてこの項目が輪読箇所であった際に幾度かスタッフに語ったことがありますが、「素直」と「盲信」は違います。
人から言われたことを、ただ単に行う。自分の考えも無く従っていく・・・。
これを「素直」とは言いません。これは「盲信」です。
「素直」とは、人から言われた時、例えば上司から指示があった場合、「その指示の背景には何があるのか?」・「何故それを行うのか?」を自分なりに考えた上でそれを行う・・・こういうことを言うのです。
別の例でいうと、上司から叱られた場合、単に「すみません」と謝るだけが「盲信」。それに対し、「何故叱られたのか?」・「自分のどこが悪かったのか?」を自分なりに検証し、反省の心を持って謝るのが「素直」です。
そうでなければ、「進歩の親」には成りえませんからね・・・。
あなたは「素直な人」ですか?!
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