人間の悲しい性(さが)

2011.03.06
    

『致知』(ちち)という人間学の雑誌があります。 一年ちょっと前の号で、この雑誌のアーカイブズ(15~16年前の記事)が紹介されていました。
「なるほどなぁ・・・」 と感じた私は、この話を要約し、社内報で社員に紹介させてもらったことがあります。
これは物凄く大事なことだと思いますので、このブログの中でも紹介させて頂こうと思います。
当社の社員にも改めて読んで欲しい。 最低でも2回、できたら繰り返し3回、ジックリと読んで欲しいと思う内容です。
 
これは作家の三浦綾子さんが生前、講演会等でよく語っておられたというもの。
テーマは 『泥棒と悪口を言うのと、どちらが悪いか』 ということについてであります。

クリスチャンの三浦さんは、牧師さんから 「悪口の方が罪深い」 と言われたとのことです。
それはこんな理由からです。
仮に、大切にしていた物や高価な物を盗られたとしても、生活を根底から覆されるような被害でない限り、いつかは忘れます。
そりゃ少しは傷つくかもしれませんが、泥棒に入られたために自殺したというような話はあまり聞きません。
しかし、人から “悪口” を言われて死んだ老人や少年少女の話は時折、耳にします。
「うちのおばあさんたら、食いしん坊で、あんな歳になって3杯も食べるのよ・・・」 と陰で言った嫁の悪口に憤慨し、その後一切、食物を拒否して死んでしまった、という話があります。
また、精神薄弱児の3割は妊婦が3ヶ月以内に強烈なショックを受けたときに産まれると聞いたことがありますが、ある妻は小姑に夫の独身時代の素行を聞き、さらに現在愛人がいることを知らされました。 それは、幸せいっぱいの兄嫁への嫉妬から、そういうことを言ったのです。
この小姑の話に、ちょうど妊娠したばかりの妻は大きなショックを受け、産まれたのは精神薄弱児だったそうです。 実に恐ろしい話であります・・・。

私たちが何気なく発する “悪口” は人を死に追いやり、産まれてくる子を精神薄弱児にする力がある。 泥棒のような単純な罪とは違うのです。

それなのに、私たちはいとも楽しげに人の悪口を言い、また聞いています。
そして、「ああ、今日は楽しかった・・・」 と帰っていく。
人の悪口が楽しい。 これが人間の悲しい性(さが)なのです。
もし、自分が悪口を言われたら夜も眠れないくらい、怒ったり、悔しがったり、泣いたりすることもあるでしょう。 自分に対し陰口をたたいた人を憎み、顔を合わせても口をきかなくなるのではないでしょうか。
自分がそれほど腹の立つことなら、他の人も同様に腹が立つはずです。
そのはずなのに、それほど人を傷つける 「うわさ話」 をいとも楽しげに語る。

私たちは自分たちを罪人だとは思っていませんし、罪深いなどと考えたりもしないのです。
「私は、人様に後ろ指を差されるようなことは何一つしていません」 私たちは、たいていそんなふうに思っています。
それは私たちが常に二つの尺度を持っているからです。
「人のすることは大変悪い」、「自分のすることはそう悪くはない」
つまり、自分の過失をとがめる尺度と、自分以外の人の過失をとがめる尺度とは全く違うわけです。

分かりやすい例をあげてみましょう。
ある人の隣家の妻が生命保険のセールスマンと浮気をしました。 
すると、彼女は「いやらしい。さかりのついた猫みたい・・・」 と眉をひそめ、その隣家の夫に同情しました。
ところが、何年か後、その彼女もまた、夫以外の男と通じてしまった。
そのとき彼女はこう言ったのです。
「私、生まれて初めて素晴らしい恋愛をしたの。恋愛って美しいものねぇ」

どうですか・・・?
私たちはこの人のことを笑うことはできません。
私たちは自分の罪が分からないという点では、この人と全く同じだといえるのです。